妹尾 裕介 【Series4】先例がないなら、自分を信じろ! 僕たちは失敗を恐れない
起業すると、バラ色の瞬間は短くて、シビアな現実が追いかけてくる。「フリーランス、ある、ある」現象だ。成功体験や自信があることと、コンスタントに収入が得られることは、まったく別の次元なのだ。日銭稼ぎのためにアルバイトに奔走し、なんのために独立したのか分からなくなるのも、「フリーランス、ある、ある」の一つだ。裕介も、イベントのアイデアはあったが、収支の見通しはなかった。
しかし幸運もあるもので、熱意と人に熱く語ってきた過程があると、応援してくれる人も現れる。裕介の場合は、吉野川市で長年パワフルにまちづくりに取り組んでいた先輩から、市が開いたコワーキングシェアオフィスKi-Daのスタッフのポストを紹介された。
そこは新築された市民プラザの一角にあり、市から委託されたイベント会社が運営することになり、現場に常駐してコミュニティづくりを推進するコミュニティマネージャーとして裕介が就任したのだ。一定のスペースがあり、ネット環境なども一通り整備され、広い駐車場もある。人集めにはいい場所だった。そこで裕介は実験的にいろんな企画を実施してみた。
「すでに場所があって、そこでイベントをやるので、わりと気軽に取り組めました」
イベント会社からは洗練されたプレゼン技術など、学ぶことも多かった。駆け出しのフリーランスには、毎月12万円の収入も、生活に十分ではないものの、ありがたい固定収入だった。そこで裕介は、週6日、9時~22時、スペースを使って、思いつくままに交流会や勉強会、フリートーキングなどを繰り広げた。また、そこに座っているだけでなく、地域を知り、人脈を広げるため、他で行われる催し物にも積極的に参加した。
「地域でのいろいろなイベントに参加しました。この2年間で知人友人はずいぶん増えましたし、若者が中心になった小さなコミュニティやちょっとしたビジネスなど、おもしろい取り組みがあって、いっぱい刺激を受けました」
拠点があって、情報発信するだけでなく、フットワークを使って各地の取り組みを肌身で感じ、情報と体感を得る機会ともなった。ただ、金銭的裏付けに課題があり、その仕事を長期に継続するのは難しかった。
コワーキングスペースの管理運営を任されていたので、所用で出かけるときには友人に代理を頼み、バイト代ほどではなくても多少の謝礼は自腹を切った。
「やっていることは楽しかったけど、お金の面は厳しかったですね」
やがて見かねた支援者が、次の業務委託のためのプレゼン準備費用として一定額を支払ってくれたが、このプレゼンは後で方向転換することとなる。
Ki-Daで2年間ホスト役を務めたことで、彼は次のような教訓を得た。
一つ目は、「場所があることの重要性」だ。
いつでも集える場所があり、集まってくる仲間がいると、思いついた企画を比較的容易に実行に移せた。また、仲間たちにとっても拠点がある意味は大きく、そこに行けば仲間がいて、自分で何かを企画するにも人を集めやすい環境があった。
もう一つは、「ある程度お金がないと、行動が制限される」ということ。
いろいろな活動に参加するにも、飲み会に出るにも、お金がかかる。懐が寂しいと、それが気になって、人づきあいをつまらないものにしかねない。ある程度の安定した収入は絶対に必要だ。ただ、これは「程度」が大事で、収入を得ることが優先されるとコミュニティ活動の魅力に影が差す。
そして一番大きいと思ったのは、「裁量権がないと、活動に限界がある」ということ。
裕介は業務委託した会社から雇われた形で、そこのスペースを使っている範囲では比較的自由にできたが、自由に使える予算がないため、どうしてもこぢんまりした企画に終始せざるをえなかった。会社との目的意識の微妙な違いも、刺激を受ける一方で、裕介が目指す方向とは違いを感じていた。それは彼が実際に、徳島という地域で自分らしい生き方を追求している多くの若者と触れ合ってきたなかで、彼等が求めているもの、彼等に必要なもの、漠然としてはいるが確かに存在するものを感じており、まだ得体の知れないものが裕介の中で形作られていた証でもあったのだろう。
そんな制限を感じながらも、彼がKi-Daという固定地に拠点を置いていたことで、人の輪も広がり、目指す方向の輪郭も見えてきた。2年目の後半には、地元でまちづくりを進める会社から次年度の業務委託のためのコンペの準備をしてほしいと頼まれ、構想を形にすることになる。
「業務委託を取りにいくという明確な目標がありましたが、それ以上に、コワーキングスペースの運営を通じて、若者の拠点づくりをしようと考えました」
価値観で共感することの多い仲間たちとチームを組み、若者が地元から出て行かずに納得感をもって暮らせるためには、何が必要か、ディスカッションを重ねた。
「あそこでなんか楽しそうなことをやっとる、そういう場にしたい」
「だれでも入りやすい雰囲気は絶対にキープしたい」
「仲間がいることで勇気が出る。仲間づくりの機会をいっぱい企画しよう」
「就職や起業を考えている人に情報提供やアドバイスの機能ももたせたい」
そしてこれらの夢を形にしていく上で、財政的な自立性も射程に入れた。
「僕にこのポストを紹介してくれた先輩の影響もありました。原田さんは行政の補助金を当てにしない住民の自主的な活動をすごく大事にしていらっしゃいます。お金の面で行政に依拠していると、お金がもらえなくなると消滅してしまう活動が少なくない。住民より役所に顔が向いている組織もたくさん見てきて、それでは地域に定着できないと。僕も共感します。自分らの活動が地域の人に評価されてこそ影響力も持続性も出てくる。最初からは無理でも、実績を重ねて、地域にも行政にも認めてもらえるようになって、財政面での自立も実現したいと思います」
こうして数カ月をかけ、チーム妹尾はプレゼンに臨んだ。スケールは決して大きくないが、構想は壮大なものを掲げていた。企業を呼び込むことでもなく、起業家を引きつけることでもなく、地元の若者が仕事や日々の生活を楽しみ、ふるさとを離れたくないと思える、そんな若者支援の「はじまりの場」をイメージした。
吉野川市は人口減少地域であり、特に若者の流出が止まらない。都市部からの移住促進も掲げてはいるが、移住政策は全国的に過当競争で希望者を奪い合っている実情があり、移住者の活躍はまちのイメージづくりとしては小さくないが、人口減少を食い止めるほどのものは期待できない。むしろ実際に移住してきた人たちと会話をしていると、自分たちのやりたいことが実現しやすい環境や人とのつながりに魅力を感じていて、それは地元で生まれ育った人にとっても共通するものだ。若い世代の現実の課題や悩みに寄り添い、支援する、そんな場所をつくることで、次世代が暮らしを紡いでいけるまちにしたいと思った。
準備過程ではまちづくり会社の担い手である親世代とチーム妹尾の世代間ギャップはときどき顔を見せたが、歩み寄り、調整し、プレゼンも双方の主張を織り交ぜて無事終了し、翌年度からの委託が確定した。
「地域の若者がいきいきしていてこそ、移住を考えている人にも魅力が伝わると思います」
チーム妹尾の主張は親世代にも市の責任者たちにも賛同を得られた。ただ、具体的な活動や運営のイメージが違った。言葉で説明するのは難しく、親世代が自分たちをサポートしようと前のめりになってくれるほど、溝が深まりそうな気がした。自分たちが自由に翼を広げるには、最初は自分たちの手で旗を揚げるしかない。それがチーム妹尾の下した結論だった。
このとき、Ki-Daの管理運営は親世代にお任せし、裕介は舞台を阿波市に移して、そのときの構想のままにawake!の活動を展開していく。そこにエネルギーを集中できたことで、着実な成果につながったのである。
「今まで、どこにもなかったものを、awake!で僕はつくれたと思っています」
それは裕介が自分で見て、聞いて、会話して、感じたもの、判断したもの、自分自身を信じて前に進んだ結果だった。
「上手に言葉で説明するのは難しかったけど、絶対上手くいく自信はありました。それに僕は、失敗は慣れているんで、別にこわくないです」
こうして気弱な若者が、いつもの歩幅で、前人未踏の領域を歩み出したのだった。