妹尾 裕介  【Series3】傷ついた君へ、共感しかない

 FUKU-GYO-LIFEの起業は内気な青年だった裕介が、秘めた想いを温め続け、一歩ずつ足場を確かめながら歩んできた、その先の偉業だった。初めの一歩を踏み出したときの裕介は、ためらいがちにawake!の扉をたたくシャイな若者以上に、やりたいことの形もぼんやりしていて、だれかに想いを語る勇気さえ心許ないものだったかもしれない。

 学生時代の裕介は特に何も考えずに適当に周りに合わせているだけの存在だった。思い出に残るものもさほどなく、何に対してもやり過ごしてきた記憶があるだけだ。大学は県外に行ったものの、充実したキャンパスライフとはほど遠く、特に目的もなく、感動もなく、時間が過ぎたように思える。

 生来的に内気なわけではなく、幼少期の裕介は元気な男の子だった。小学校に上がると、クラスの中でもだれより声が大きく、先生の質問を最後まで聞く前に手を挙げているようなパワフルボーイだった。3年生になると少年野球も始め、チームのコーチは裕介のパパ、褒められたかったのかどうか覚えていないが、けっこう楽しく頑張っていた。

 ところが、4年生、5年生と学年が上がるにつれ、成長の遅かった裕介は整列時には一番前かその次、体格も体力も後れを取り、勉強もやる気がなくなっていき、いつの間にか人前に出るのが疎ましくなっていった。

 野球チームでは後から入ってきたメンバーに抜かれ、レギュラーを外され、ベンチを温めるだけの役割になっていた。それでも野球を続けていたのだが、ある日、コーチから決定的な一撃を浴びた。

「おまえは、なんのためにそこにおるんか。レギュラーにもなれんで、なんの意味がある。
 おまえみたいなやつは、消えてしまえ」

 そのときの痛みは覚えてさえいない。ただ、できることは、心を閉じることだけだった。その日を境に、彼は心を閉じたまま、10代の輝きも葛藤も封印し、なんとなく大学に行き、卒業した。

 そんな裕介が卒業後に地元に帰ってくる。いろんなことが重なって、一人では家族を支えきれなくなっていた父親が息子を呼び戻したような形だったが、裕介は素直に従った。彼は父親を憎んではいなかった。両親が離婚し、家庭も仕事も思うようにいかなかった生真面目な父親が、イラ立ちの感情を息子に向けたのだろうと、妙に達観していたのだ。

 こうして地元での大人としての生活が始まった。バラバラになった家族の中に戻り、不安定な家庭で思春期をやり過ごしてきた歪んだ表情の弟と冷め切った顔の妹と向き合い、家計の一翼を担い、目の前のことに追われるままに2年が過ぎた。そして家族が少し落ち着きを取り戻した頃、父の要望で阿波市の職員採用試験を受け、公務員として働くことになる。この2年は傷ついた弟と妹に兄として関わるなかで、封印していた自分自身の傷を彼等の中に見いだし、いろんなものを失った父の不安や悲しみを感じ、家族それぞれに出口を求めてさまよった日々だったかもしれない。この紆余曲折がいつの日にか、裕介の血肉となっていることを知るのだろうか。

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 さて、阿波市職員となった裕介は青少年育成センターに配属され、さまざまな課題を抱えた子どもたちと接することになる。

「教育委員会の下にある組織で、実質的に手足となって動く機関ですね。青少年の防犯という役割も担っているのですが、不登校やひきこもりなども深刻で、いわゆる教育弱者の支援も担いました」

 裕介はここである青年と関わりをもつ。裕介より2歳年下で、中学のときから15年間ひきこもり生活を続けていた。裕介は足繁く彼のもとに通った。

「特にこちらからは何も言わないし、何も聞きませんでした。ただ、そばに座っていました」

 そばに座り、お互いの気配を感じながら、青年にも裕介にも時が流れていく。そこにだれかがいることで、自分が存在していることを感じる時間、やがて他人がいる空間が刺さらなくなっていく。そして3年が過ぎた。

「ちょっとずつ話をしてくれるようになっていました。一緒に外に出かけるようにもなりました。もともと賢い子でね、パソコンのスキルも高かったし、だんだん前向きになって、ついにはスキルを活かして就職しました」

 裕介は彼のバリアが自然に解けるのを待った。そこに自分自身を重ねていたのかもしれない。裕介の場合は普通の社会生活を続けていたが、心は十年間ひきこもっていたのだから。

 阿波市の職員としてたくさんの傷ついた子どもや青年と関わる日々は、裕介の心と目線を外に広げていく。膝を抱えた子、あきらめてしまった若者、活路が見いだせたとき、希望が見つかる。一緒に活路を探すことが、自分の天職かもしれない。

 市職員として子どもたちと関わる日々は、それ自体はやりがいのあるものだった。青少年育成センターという部署が課題を抱えた子どもたちをサポートする役割があり、何かに傷ついて自分に自信がもてない子どもや青年と多くの時間を共にした。

「僕には共感しかなかった」

 だから裕介は、無理やり手を引っ張らず、隣に座り、呼吸を感じて、そっと背中を押した。彼はみんなのお兄さんだった。

「僕も彼等と同じように、組織の中で居心地の悪さを感じていました」

 彼の部署は、それぞれ違った苦しみにあえぐ子どもたちに柔軟に接する必要がある半面、市教育委員会の下部組織という縦社会にがっちりと組み込まれていて、堅い椅子で肩こりに耐えるような職場だった。

 そして教育委員会は、いわば不動の組織。上から降りてくる方針には対応するが、現場から上がってくる提案を採用する可能性は、天文学的な数値だ。

「個別のケースを判断するときに、あらゆるケース、さまざまな批判を想定しようとするので、いつまでも進まない。その間にも、子どもは大きくなっていく。組織の論理や理屈は、理解はできますが、僕は好まない」

 そこで裕介は、別の可能性を探し始める。「複業」のスタートだ。

「本業は手を抜かず、きっちりやりながら、別の可能性を探しました」

 最初はボランティアでいくつかワークショップを手伝った。コツが分かってくると、自分でイベントを企画・運営するなど、活動領域が増えていった。

「コンセプトは大人が楽しめること」

 婚活イベントや異業種交流会、テニスなどの社会人サークルも主催した。それは大人の部活動のような取り組みで、またたく間にサークル会員は150人を数えるようになった。これらの活動を通じて1000人を超える若者との出会いがあった。

「ニーズはものすごく感じましたね。人とつながりたいし、楽しく暮らしたい。でも、自分から声をかけるのは苦手という若者が多くて。みんなシャイでした」 

 このころの裕介はある意味で充実していた。仕事ではさまざまな子どもたちと出会い、学校や家庭、いろんな場所での生きづらさを知り、自ら主催するイベントでは地元徳島で働いている若者の漠然とした不安や不満、自信のなさも感じていた。

 職員5年目の秋、裕介はTeam Teaching として小学校のクラスサポートに派遣される。産休に入ったクラス担任に代わって、ホームルームなどのクラス活動を支援することになった。担当したのは男の子8人だけの1年生。生徒数の減少で廃校瀬戸際の学校では、女の子はみんな他の小学校に入学し、きかん坊だけが集められたようなクラスだった。

「授業なんか、ぜんぜんできない。みんな走り回っていて、追いかけているだけで一日終わってしまう」

 最初は教師の問題かと思っていたが、実際に毎日教室で子どもたちと過ごし、他の教師や保護者と関わるにつれ、問題はそう単純でないと思うようになった。

「大人が疲れている。先生も、保護者も」

 子どもたちは、元気だけは余っていた。裕介は子どもたちと3カ月後の学習発表会に向けて鍵盤ハーモニカの練習を開始した。もちろん大人しく練習するはずがない。それでもだれかがちょっと上手に吹けると、他の子も興味を示した。そのうちハウリングがおき、あちらこちらで鍵盤ハーモニカが勝手に音色を奏でる。そうすると不思議なもので、リーダーが出現し、みんなで音を合わせようと言い出す。

「あ、できた」

「ぼくも」

 8人が一つのメロディーを奏でられるようになっていった。

 そして迎えた1月の学習発表会、子どもたちはきちんと姿勢を正し、上手に演奏したのだった。彼等の自信に満ちた目の輝きは、それは美しいものだったと裕介は言う。子どもたち一人一人と握手をし、抱き合った。

 この日、彼は、離職を決意する。その先に自分がやるべき役割がうっすらと姿を見せてくれたような気がしたのだ。

 複業を通じて裕介は発信力を高めるために独学で広告・広報などのノウハウを学び、一度出会った参加者たちと双方向のコミュニケーションを深めていた。自分たちの世代は日々の生活や人との関係性を大事にする傾向が強く、仕事についても収入以上に働きやすい環境やワークライフバランスを重視していた。仕事に「やりがい」を求める気持ちはあるようだったが、職場にそれを期待する気持ちは薄かった。

「やらされ感からもう一歩先に進めなくて、変わってほしいけど、自分から変えるにはためらいがあるような」

 彼等の不安や不満、将来への想いを肌で感じた。

「僕には、共感しかない。そして、あきらめない。だから一緒に前に進める」

 自分自身が担うべき役割のイメージと、それを担える自信がわき上がってきた。

「彼等が前を向ける環境をつくろう」

「前向きな若者を増やして、徳島を元気にしたい」

 こうして2020年4月、フリーランスとして独立し、「あわライフ」を開業した。

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